姫路城を撮影するなら男山から!千姫の人生に想いを馳せる
スポンサーリンク
姫路城の北西にある男山とは?
今日は祝日なのですが、主人も娘も1日出かけていて、私も特に用事がなかったので、息子と二人で姫路市の山ノ井町にある「姫路文学館」へ「怪談 皿屋敷のナゾ」という姫路では超有名な「お菊さん」に関する特別展を見に出かけました。
(関連記事)姫路城に行くなら、その前に知っておきたい言い伝えがある!「播州皿屋敷~お菊井戸の伝説」
お菊さんのお話は息子もよく知っていましたが、特別展の内容は、やはり小学生にはちょっと難しかったみたいでした。そこで、ちょうど姫路文学館からの帰り道にある男山に立ち寄ることにしました。
男山は姫路城の北西にある標高57.5mの小さい山です。小さいですが、息子は男山に夢中!そりゃそうですよ!姫路観光に来られたなら、ぜひおすすめしたい思い出に残る「階段」(怪談つながりで…)のある山なのです。
男山へはスニーカーで!
息子が男山に食いついた理由は、頂上へとまっすぐ続く圧巻の階段です。その段数198段なのですが、かなりの傾斜に、高所恐怖症の方ならきっとかなりの恐怖を感じられることでしょう。
でも小学生には登りたくてたまらない階段です。
頂上に向かって、真ん中に手すりもあるのですが、途中かなりキツイです。必ずスニーカーを履いて、力試しのつもりで登りましょう。
手すりは途中途中、どうゆうわけか途切れているところがあるので、手すりを必要とする方は、注意深くつかみながら登ってくださいね。掴み損ねると命取りですよ!
(登り切って上から見た階段です)
観光として来られたなら、この男山の階段は「しかし、あの階段はすごかったなぁ!」と、きっと思い出に残るはずです。
男山は千姫にゆかりのある山
男山には、男山八幡宮や千姫天満宮、貯水池公園があります。
男山八幡宮は、最初の姫路城主である赤松貞範が、京都の石清水天満宮から分霊し、男山に祀ったのが最初と言われていて、歴代の姫路城主が大切に信仰してきました。
源氏との結びつきが強い戦いの神様とも伝わっています。
千姫天満宮は、姫路城にゆかりの千姫が天神様(菅原道真)を信仰していた関係で、男山に天満宮を建立したと伝わっていて、姫路城内で守護神として安置していた天神木像を天満宮に移して、朝に夕に熱心に拝んでいたといいます。
千姫天満宮は千姫の過ごした姫路城の化粧櫓から拝めるように、東向きに建てられています。
千姫ってどんな人?
千姫の両親は、徳川家康の三男で第二代将軍の徳川秀忠と、戦国一の美女との異名を持つ織田信長の妹、お市の方の三女 江(ごう)です。つまり千姫は、徳川家康の孫娘になります。
千姫の人生はかなりの波乱万丈で、誰もが知っている歴史的大事件の超ど真ん中で、影響を受けまくりだったといえます。
1598年千姫わずか2歳で、豊臣秀吉の息子 豊臣秀頼(6歳)と婚約し、1603年7歳の時には豊臣家に嫁ぎました。
幸い豊臣家には、お市の方の長女で、母 江の姉である淀君がいたので、政略結婚とはいえ、大事にはされていたようです。
この淀君が豊臣秀頼の母ですので、千姫と豊臣秀頼はいとこ同士の結婚でした。
千姫と豊臣秀頼は政略結婚といえど、仲も良く幸せな日々を送っていたようなのですが、やがて豊臣秀吉が亡くなると、豊臣家と徳川家の仲は、雲行きがあやしくなっていきます。
そうです!誰もが知るあの大事件、1615年大坂夏の陣にて大阪城は徳川軍に負け、落城。豊臣秀頼とその母 淀君は自害してしまいます。この時千姫19歳です。
事前に豊臣秀頼と淀君の命乞いのため、徳川家康のもとに引き渡された千姫は、そのまま救出され、自分だけが助かってしまいます。千姫の心のダメージはかなりのものだったようです。
スポンサーリンク
徳川家康は、千姫が離縁されて戻ってきたわけではないので、形式的に群馬県にある満徳寺という寺に出家させ、一時期尼として生活させます。こうすることで豊臣家と縁を切るためです。
やがて1616年千姫21歳の時、初代姫路藩主となる本田忠刻(ただとき)と再婚します。
満徳寺には侍女を名代とし、千姫は還俗しての結婚でした。侍女は満徳寺で生涯を終えています。
本田忠刻は千姫に優しく、かなりのイケメンだったそうで、彼との結婚生活は、千姫にとって幸せ
なものだったようです。千姫22歳の時に長女 勝姫を、翌年には長男 幸千代をもうけました。
ちなみに本田忠刻の母は、織田信長によって切腹に追い込まれた、徳川家康の長男 松平信康の娘 熊姫ですので、いとこ同士ではありませんが、親戚同士になりますね。
しかしそんな千姫の幸せは長くは続きませんでした。幸千代がわずか3歳で亡くなり、その後は何度も流産を繰り返しました。また夫 本田忠刻も病いに伏せりがちになります。
千姫が姫路の男山に千姫天満宮を建立したのは、ちょうどそんな時でした。
(男山から見える姫路城)
千姫に次々と起こる不幸は秀頼の祟り?
わずか3歳の長男 幸千代の死の悲しみが癒えない千姫に、次々と不幸は襲いかかります。
1626年、病に伏せりがちだった夫 本田忠刻が亡くなります。長男 幸千代の死からわずか5年後の出来事です。
それだけではありません。本田忠刻の死からわずか3か月後の8月に義理の母 熊姫、さらに1か月後の9月に実の母である 江というように、千姫とゆかりの深い人々が次々と亡くなりました。
千姫が占ってもらうと、なんと豊臣秀頼が恨んで祟っていると言われたとの言い伝えもあります。
豊臣秀頼の祟りは、嘘か誠かわかりませんが、千姫の二度目の夫 本田忠刻が亡くなったのは5月7日。この日は大阪城が夏の陣にて落城し、豊臣秀頼が自害した日と偶然にも同じ日でした。
千姫は豊臣秀頼への謝罪の手紙を仏様に入れて奉納したり、千姫天満宮には、魔よけとして持っていた羽子板を奉納したりしています。そのことから、千姫天満宮の絵馬は今も羽子板の形をしているということです。
姫路城を撮影しに来たなら、ぜひ男山へ!
(途中にある幸運のかえる)
男山の頂上までは、キツイ階段の他にも迂回して登る道があります。
姫路城を撮影するなら、きっと男山の頂上へは行くべきでしょう!
理由は、頂上に着けばあなたにもきっとわかりますよ!ぜひおすすめです!
スポンサーリンク