私の記憶 阪神淡路大震災について
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1月16日、阪神淡路大震災前日
阪神淡路大震災が起きた1995年、私は大学の3回生。17日は大学の試験が予定されていて、前日まで私はテスト勉強に必死でした。
そんな阪神淡路大震災の起こる前日の16日、父と母は、以前から空家になっている父方のおじいちゃんの家の片付けへと出かけていました。
おじいちゃんの家もいよいよ手放さないといけないということで、父と母は、私に電話をかけてきて、「今日はこっちに泊まろうかと思うんやけどいいか?」と聞いてきました。
私は翌日は試験だし、妹の世話や家事をするのも面倒だったのもあり、「いやいや、あかんで帰ってきてよ!」と言いました。両親は結局きちんと家へ帰ってきてくれることになりました。
今思うと、あの時もし「いいよ。」と言っていたら、おじいちゃんの家は翌日、震災後の菅原市場周辺の火災で焼けてしまうのですから、考えただけで恐ろしいことでした。
震災2週間前の不思議な夢
実は、以前このブログでも書いているのですが、私は過去にこの阪神淡路大震災についての不思議な夢をみていました。
それはちょうど2週間前、夢の中で三宮周辺のビルが横倒しになり、家屋が倒壊して、神戸の街が見るも無残な姿に変わってしまうという夢です。この夢は何も嘘っぱちなどではなく、あまりにもリアルだったので、その夢を見た日のうちに、周囲の友達にも話していました。
友達が震災の起きた当日1月17日の、まだ電話がつながっていた6時台に、あわてて電話をかけてきたのは言うまでもありません。
(関連記事)夢で見た阪神淡路大震災。予知夢なの?!正夢?!
1月17日当日
その日の朝は、激しい揺れで目が覚めました。震源地からは少し離れた私の実家は、電車で三宮まで約30分のところにあります。ですが私や家具が抑えつけてある部屋の絨毯は、激しい揺れのため約20~30センチほど床面とずれてしまったほどでした。
驚きましたが、当時は今ほど情報が素早く届くアイテムもありませんでしたので、私も大学へ出かける準備など普通にしておりました。そんな中、私の夢の話をしていた友達からの電話や(※しばらく後に、電話はつながらなくなりました。)、テレビの速報などで、どうやら神戸で地震が起きたことを知りました。
それでも当日は試験の日でしたので、大学からの連絡もありませんし、とにかく大学へ向かおうと、出勤する父と共に駅に向かうバスに乗り込みました。
ところがバスは最寄りの駅に着きましたが、三宮方面へ向かう電車は当然動いておらず、駅はパニック状態です。父が私に一度帰宅して待機するようにいうので、私は仕方なく家へ引き返しました。
父は神戸市の職員でしたので、とにかく現地へ向かわねばならず、タクシーを手配し震災後すぐに現地へ向かいました。それからは不眠不休で、しばらく帰宅することはありませんでした。
友達の死
それからしばらくはテレビの情報は阪神淡路大震災のことばかりで、私もしがみついて見ていましたが、その中に安否確認が出てくるのですが、そこに友人の名前があるのを見つけました。
「そんなまさか?!」その友人は、同じ学部の同じゼミの子で、週末も帰り際少し談笑し、「ばいばい!」と行って別れた子でした。
まだ物心ついてから、友人の死なんて考えたこともない時でしたので、ものすごいショックで、動揺したのを覚えています。友人は一人暮らしをしていて、アパートの1階部分が押しつぶされて亡くなりました。
学校周辺の惨状
しばらくして、仲の良い友人達と連絡がつくようになり、当時の定番になったリュックサックとズボン姿で、私も大学を目指しました。大学へは通常なら45分程度で行けるのですが、電車は当然途中までしか動いておらず、とちゅうから往復6時間かけて歩きました。
学校周辺は、それまでの街並みとは大きく違いました。特に1階部分が押しつぶされているアパートや屋根が前に崩れかかっている家屋などがたくさんありました。あちらもこちらも瓦礫の山で、本当に怖かったです。
大学も例外ではなく、いろんなところが壊れ、しばらく休校となり、その後プレハブの校舎で授業を受けることになりました。
おじいちゃんの家
おじいちゃんの家は神戸市の長田区にあり、菅原市場の近くでした。テレビで菅原市場から火が出たことを知り、母とテレビにかじりついて見ていました。
危険なので、すぐに現地へは行けませんでしたが、落ち着いてからおじいちゃんの家があったところへ行って感じたのは、「戦争の時の焼け野原って、こんなんだったのかなぁ。」ということ。
元々家々が密集したところでしたので、仕方ありませんが、焼けてしまった後は、家と家の境界なんてわかるわけもなく、おじいちゃんの家もどこだったのか、焼け落ちて墨だらけで真っ黒い瓦礫を踏みしめながら探しました。
ちょうど焼け跡に、おじいちゃんの家にあった足踏みミシンの鉄の部分や、窓の鉄柵が目印となり、この辺りだろうという感じで、見つけたところでどうもできないことは、私も母も口にはしませんでした。
おじいちゃんが数年前に亡くなり、そこに住んでいなかったということだけが救いでした。
お父さんの仕事
父は、いまでこそアルツハイマー型認知症のため、阪神淡路大震災のことは全く覚えていませんが、当時は本当に大変だったと思います。
しばらく不眠不休で震災後の対応に追われ、少しだけ帰宅した時にいくつか話を聞きましたが、市民も職員も皆初めてのことにパニックで、職員の中にも当然家族が被災した人もいるということ。
人々の苛立ちがつのっているため、おろおろしたり、言い方のまずい職員が殴られたりした事件もあったこと。職員の中にも、身勝手な人が出たこと。一生懸命動く職員の疲労が蓄積されていることなど、本当に大変そうでした。
「自分たちのように、震災の被害を逃れた職員が今一生懸命しないで、いったい誰がやるんだ。」というような話をしていたことを覚えていて、本人は忘れてしまっていますが、当時の父は、本当に尊敬できる父であったと、今思い出しても思います。
今の幸せに感謝して生きる
あの時命を落とした多く人たちの時間は、止まってしまいました。でも私たちは今、普通に生きています。
生きていたら色んな事があり、大変なこともありますが、ささやかな幸せも生きているからこそ感じられるということも確かな事です。
そんなささやかな幸せに目を向け、感謝して大切に自分の命、人生を生きていきたいと思います。
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