姫路城に行くなら、その前に知っておきたい言い伝えがある!「大工の棟梁、桜井源兵衛の伝説」
スポンサーリンク
姫路城の天守閣は傾いていた?!
姫路城が築城されたころ、姫路城下の人々は、お城が少しばかり東に傾いているのではないかと心配していたそうで、次のような歌が流行ったといいます。
「東に傾く姫路の城は 花のお江戸が恋しいか」
これは、大天守と小天守の建物の規模の違いや、重量差が影響していたようです。これらの重量差は、土台岩盤への重圧の違いを生み、背の高い天守は、風圧も大きくなります。そういった関係で、どうやら本当に傾いていたということです。
この傾きは昭和の大修理の際にも、基礎にコンクリートの定盤を置く工事が行われたということです。
そういうわけで、この姫路城の傾きは設計ミスなどではないそうなのですが、今日ご紹介する姫路城の伝説は、この傾いた姫路城の築城を担った大工の棟梁の悲しいお話です。
桜井源兵衛の伝説
姫路城の天守が築かれた時、この現場の大工の棟梁を務めたのは、桜井源兵衛という男でした。
天守閣の工事もいよいよ終盤に近付いたある日、源兵衛は日頃から姫路城完成を心待ちにしている妻に工事現場を見せてやろうと、ともにやってきました。
妻は大変感心しながら天守を眺めておりましたが、ふとこのように言いました。
「大変立派にできておりますが、どことなく巽の方角(南東)に傾いているように思います。」
これを聞いた源兵衛も、自らの目でしかと確認してみました。すると、そう言われて見てみると、確かに傾いているではありませんか。これは自分の設計ミスに違いないと、悩みに悩んだ源兵衛。ついにある時、天守閣の最上階から口にノミをくわえ、自らの身を投げて死んでしまったということです。
この話を伝え聞いた姫路城下の人々は、源兵衛を憐れんで、「東に傾く姫路の城は…」の歌を歌い、「お城の傾きは源兵衛の失敗などではなく、姫路城のお天守も、お江戸が恋しくてつい、東へ傾いたのだ。」とかばったということです。
スポンサーリンク
桜井源兵衛の石碑
伝説には、源兵衛が天守から身を投げ、落ちたその場所に石碑が建てられているといいます。ちょうど姫路城周遊観光ループバスの「清水橋」停留所付近(千姫小径の出発点)に実際の石碑があるのですが、実際のところは、元禄8年(1695年)の文書の中に、この石碑建立の経緯が書かれています。
それによると、この石碑は本田忠政(千姫のお舅さん)が行った船場川改修の記念碑であり、この整備された船場川沿いの町(材木町)の人々が建立したものであるといいます。
古いもので碑文が読めなくなり、当時の「瘧(おこり)」と言われた熱病の一種を治す「瘧石(おこりいし)」であるなどと、さまざまな解釈がされてきたそうです。
桜井源兵衛の伝説はフィクション?!
実はこの桜井源兵衛の伝説は、フィクションであるという説が正解のようです。ではなぜこのような伝説が生まれたのでしょう。桜井源兵衛の伝説は江戸時代後期には、人々の間に広まっていたようで、傾く天守閣を心配そうに見守っていた城下の人々が、誰からかこのような悲話を語り始めたのではないかということでした。
では桜井源兵衛が架空の人物であれば、本当の棟梁は誰だったのでしょうか?
「姫路市史(14巻)」の中で推測されていることには、実際に当時姫路城築城で棟梁として活躍したのは、豊臣秀吉の姫路城を築いた磯辺家一統の「磯辺庄次郎直政」という人物ではないかと言われています。
磯辺庄次郎直政の戒名は、「城棟院冷月宗白寿」と記されていて、「御城の棟梁也」との注記がされていることが、その根拠となっているとのこと。
播州姫路は城で成り立つとの人々の意識から、傾くお城への心配も相当のものだったのでしょうね。
スポンサーリンク